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瀬戸内寂聴の本名や年齢は?生い立ちや不倫の果てに出家した人生も



 

瀬戸内寂聴さんについて調べてみました。

2019年97歳でも、元気な瀬戸内寂聴さん。

波乱万丈の人生を送っている方ですね。

瀬戸内寂聴さんの本名や年齢、生い立ちについて、不倫や出家したことなどについてみていきましょう。

瀬戸内寂聴の本名や年齢は?

瀬戸内寂聴さんの本名や年齢について調べてみました。

本名や俗名は?

瀬戸内寂聴さんの本名は瀬戸内晴美です。俗名は、僧侶が出家する前の名前ということなので、本名と同じ瀬戸内晴美です。

しかし、1973年に出家した時に、戸籍上の氏名も瀬戸内寂聴としたため、現在は、本名俗名も、瀬戸内寂聴です。

年齢や生まれた年はどんな年だった?

瀬戸内寂聴さんは、97歳(2019年8月現在)です。生年月日は、1922年(大正11年)5月15日です。

大正時代というと、大正ロマンという言葉があって、新しいものをどんどんとりいれている良いイメージがあります。

貧富の差はありましたが、ドラマなどで描かれる庶民の日常は、のどかで平和に見えます。

戦争はありましたが、軍人だけの戦争でした。

ライスカレー、コロッケ、とんかつが三大洋食と言われていました。

 



 

1922年は、芥川龍之介が『トロッコ』を発表した年です。

武蔵鉄道が西武鉄道に社名変更し、アインシュタイン博士が来日し、相対性理論ブームが起こりました。

ソビエト連邦が成立し、日本では、日本共産党が結成されました。イタリアでムッソリーニ内閣が成立しています。

翌年1923年には関東大震災が起きています。その後は、戦争の暗い時代に向かって行きました。

そんな時代に生まれた瀬戸内寂聴さんです。

瀬戸内寂聴の生い立ちは?

瀬戸内寂聴さんの生い立ちや両親のことなどみていきましょう。

生家や両親の名前は?兄弟はいたの?

瀬戸内寂聴さんは、徳島県徳島市に生まれ、晴美と名づけられました。

父は三谷豊吉、母はコハルといい、仏壇店を営んでいました。

父が従祖母(おおおば=父母のおば)瀬戸内いとさんの養子になったため、瀬戸内寂聴さんも三谷から瀬戸内という名字となりました。

兄弟は、5歳上の姉・艶(つや)さんがいます。

母親は編み物が上手で、商売の合間を縫って帽子やセーターなど、編んでくれました。

また、母はおしゃれで、徳島市で一番最初にパーマをかけた女性だそうです。

 

子供のころはどんな子だった?おできのせいで小説家になった?

5歳上の姉が好きで読んでいた少女雑誌や小説を一緒に読んでいたといいます。

小学校に入る前に字は覚えていたというのですごいですね。

また、瀬戸内寂聴さんが幼稚園の時、小学生の姉の教室で、姉の授業が終わるのを待って一緒に帰っていました。

待っている間に、姉の担任の先生が本を貸してくれたので、読んでいたのでした。

 



 

瀬戸内寂聴さんは小さい頃、よくおできができて薬をつけていたので、周りの子が嫌がって遊んでくれなかったそうです。

うつると思ったのでしょうか。

それで一人遊びをしたので、想像力が育ったと言っています。

小説家になったのは、その時の経験があったからというのです。

 

瀬戸内寂聴さんは、自身の記憶力について、こう言っています。

記憶力がいいってよく言われるけど、ものを覚えようとしたことないんですよ。

だけど子どものころ、四つくらいのことから全部覚えてるの。

ある夜のことを書こうとすると、どんどんいろんなことを思い出すというのです。書く前はそんなことを思っていなくても。

すごい記憶力ですね。どこかに、記憶の引き出しがあって、1つ思い出すとそれがカギとなって、開いて次々に出てくるのでしょうか。

 

女学校時代の話

瀬戸内寂聴さんは、女学校から東京女子大に進学しています。

東京女子大学は1918年にキリスト教プロテスタントの宣教師によって専門学校として設立されました。

女学校に進むのは、クラスの半分ぐらいでした。あとの半分の人たちは、家が貧しくて女学校に行くことができませんでした。

瀬戸内寂聴さんはこの時はじめて、不公平ということを知ったのです。成績優秀な人が受験できないのが悲しかったのです。

 

瀬戸内寂聴さんは女学校の思い出を話しています。

徳島の女学校は、卒業時に本職のあんま師を呼んできて、習ってから卒業するの。

それで、結婚したら「亭主をもめ」ではなく、「舅と姑をもみなさい」と言うの」

引用元:アエラ

その頃の女学校は、夫と夫の家族に尽くす良妻賢母を育てる学校だったのですね。

 



 

瀬戸内寂聴さんは成績優秀でした。両親は、当たり前と、驚きません。

女学校から上の学校に行く人は4~5人でした。東京に行くのは2人で、他の人は大阪でした。

 

東京に行く2人のうち1人は日本女子大でした。

当時は、女子大というと、日本女子大と誰もがイメージするほど日本女子大が有名で、お金持ちのお嬢さんが進学する大学でした。

ちなみに日本女子大は、1901年(明治34年)に政府の支援で設立された日本初の女子高等教育機関です。

 

瀬戸内寂聴さんも日本女子大しか知りませんでしたが、女学校の廊下に貼ってあった東京女子大学のポスターを見て東京女子大に決めたのです。

そのポスターに写っていた大学構内にあるチャペルが美しくて心惹かれたそうです。

それで実際に東京女子大を訪ねて行ったところ、大学の門が半分開いていて、招き入れられているように感じたことから、決めたとのこと。

しかし、受験はむずかしかったようで、無理だとあきらめていましたが、合格しました。

 

女学校の数学の先生にこのままじゃ受からないから、渋谷の塾に行きなさいとすすめられ、受験前の12月に入塾したのが良かったのでしょう。

昭和の初めにも大学受験用の塾があったなんて、知りませんでした。面白いですね。

 

瀬戸内寂聴の人生は不倫の果てに出家!?

不倫について、夫の教え子と妻子ある作家と

瀬戸内寂聴さんは、1943年、大学3年の時、9歳上の男性と見合い結婚をしました。

翌年1944年、女の子を出産しました。

その後、夫の赴任先、北京に同行しました。

 

そのため、空襲の経験がないと言っています。終戦後もそのまま中国に残っていましたが、強制送還されました。

中国の人たちと仲良くしていたので、終戦後も怖いことはなかったそうです。

 



 

帰国後、徳島で親子三人で暮らしていましたが、瀬戸内寂聴さんは夫の教え子と不倫してしまいます。

不倫したことを黙っていられなくて夫にしゃべってしまい激怒されます。

夫は瀬戸内寂聴さんと教え子を引き離すため、徳島を去って、東京に居を移します。

 

それなのに、不倫相手を忘れられなかった瀬戸内寂聴さんは、夫と3歳の娘を捨てて、青年に会うため、京都に行ってしまいました。

瀬戸内寂聴さんは25歳、相手の青年は21歳でした。

21歳の青年に、家庭を捨てて来た瀬戸内寂聴さんの思いは重すぎ、別れることになってしまいます。

 

娘の不倫を知った父からも縁を切られました。ちなみに、母は戦時中の空襲で防空壕に逃げ遅れて亡くなっています。

1950年に正式に離婚し、東京へ行って、作家を目指しました。小学3年生ごろから作家になりたいと思っていたようです。

1957年「女子大生・曲愛玲」で新潮雑誌同人賞を受賞。1963年「夏の終わり」で女流文学賞を受賞し、人気作家の仲間入りをしました。


 

瀬戸内寂聴さんは、作家井上光晴さんと不倫関係にありました。

井上光晴さんは瀬戸内寂聴さんと不倫しながら他の女性とも不倫するという女好きだったそうです。

 

井上光晴さんの娘、井上荒野さんが、父と瀬戸内寂聴さん、母をモデルに「あちらにいる鬼」を発表しました。

出版社から書いてみないかと言われても、そのつもりはなかったという井上荒野さんでしたが、瀬戸内寂聴さんに会って、書かなければと気持ちが変わりました。


 

フィクションではありますが、両親と不倫相手のことを書くのは普通では辛いでしょう。

しかし、今では井上荒野さんと瀬戸内寂聴さんは仲良くなっていて、井上荒野さんの母と瀬戸内寂聴さんも同士のような不思議な関係になっていたのでした。

瀬戸内寂聴さんは、

(不倫するなら)「奥さんと別れて一緒になって」などとは言わないこと、

世間的な幸せは最初から捨てないと

と言っています。

 

出家した理由は?最初は修道女になりたかった?

瀬戸内寂聴さんは、1973年、51歳で出家しました。天台宗、岩手県平泉の中尊寺で出家しました。

現在は京都嵯峨野で寂庵という庵に暮らしています。

 

何度も出家の理由を聞かれる瀬戸内寂聴さんは、

「より大きな何かを探し求める気持ちが決断のきっかけ」と、短く答えています。

けっして恋愛に疲れたわけではなかったと。

 

本当は修道女になりたいという思いが昔からあったのですが、不倫の経験があったので、教会から拒否されたのでした。

また他の理由として、娘が結婚すると聞き、嫁入り道具一式を贈ったところ、

母親は小さいときに亡くなっているからと、送り返されて来たことがショックだったからともいわれています。

 



 

娘と和解?なぜ娘を捨てたのか?

出家時の1973年には、岩手県の中尊寺にて別れた娘さんと和解し、孫と会うこともできたといいます。

瀬戸内寂聴さんが娘を置いて家を出た理由は経済力がなかったからでした。

でも、そのことをずっと悔いていたのでした。

「男の人と対等なたちばになりたいなら、経済的に自立しなければならない」と女性に言い続けています。

当時は自立できない女性がほとんどでしたからね。今とは全く状況が違います。

瀬戸内寂聴のプロフィール

プロフィール

名前:瀬戸内寂聴
生年月日:1922年5月15日
年齢:97歳(2019年8月現在)
出身地:徳島県徳島市

ペンネームは?

1番最初に小説を発表した時は、三谷晴美、

その後、三谷佐知子、瀬戸内晴美となりました。

出家後、しばらくは瀬戸内晴美でしたが、

今までの作品も瀬戸内寂聴に変えているそうです。

デビュー作

1956年 「痛い靴」 「文学者」に発表

受賞作

1957年「女子大生・曲愛玲」 新潮同人雑誌賞
1961年「田村俊子」     田村俊子賞
1963年「夏の終わり」    女流文学賞
1992年「花に問え」     谷崎潤一郎賞
2001年「場所」       野間文芸賞
2011年「風景」       泉鏡花文芸賞
2018年 句集「ひとり」    星野立子賞
 


 

まとめ

瀬戸内寂聴さんの本名は、現在では、本名も瀬戸内寂聴です。年齢は、2019年8月現在で、97歳です。

徳島県徳島市で生まれ、東京女子大の3年生の時に結婚、子どもも生まれました。

しかし、不倫のため、子供を置いて家を出ています。後に妻子ある作家とも不倫。

1973年、51歳で出家しました。

 



 

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